「わたしたちの罪のため」  07.12.02
                   イザヤ書 53:1〜12

 クリスマスを待つ待降節になりました。この時期は、心を静めて
クリスマスのことを考える時です。どうして神さまはクリスマスを
起こされたのでしょうか。どうして神の身分であった主イエスが、
わざわざ人となってこの世にお生まれになったのでしょうか。

 主イエスは、ご自分のことを「多くの人の身代金として自分の
命を献げるために来た」とおっしゃいます(マルコ10:45)。
 主イエスは、私たちの罪を担って十字架にかかり、私たちを
滅びから解放するためにお生まれになりました。私たちの救いの
ために「命を献げる」生涯を送るためにお生まれになったのです。
 本日のイザヤ書には、十字架にかかる主イエスの姿が描かれ
ています。ここには、痛々しく悲しい姿があります。しかし、
そのような姿になるために、クリスマスに主イエスはお生まれに
なったのです。
 主イエスは、ご自分のことではなく、私たち人間の救いのことで
頭を一杯にしておられます。神さまに背き、罪を犯し、さ迷う人間を
滅びから救い出したい。そのことを、ご自分のことよりも大事な
こととされました。たとえご自分が命を献げることになっても、
痛みや惨めさを味わうことになっても、私たちの救いの方を
優先事項としてくださったのです。父なる神さまもそうでした。
 ご自分の大切な独り子よりも、私たちの救いを優先なさいました。
 クリスマスに登場する天使たちも、私たちのことで頭が一杯です。
 幼子の誕生が、十字架に向かう生涯の始まりであることを
知りながら、「大いなる喜びを告げる」と語りました。
 幼子の十字架よりも、それによって救われる私たちのことに
心を向けていたからです。
 もしも、天上の世界が私たちのことを二の次にしていた
ならば、主イエスが十字架への道を進むためのクリスマスは
起こらなかったでしょう。 しかし、クリスマスは起こりました。
 それは、何を犠牲にしても私たちを救いたいとする神さまの
熱い思いがあったからです。 そして、それが実行されたからです。